びおの珠玉記事
第184回
人馬一体の家のこと、草のこと。その二
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから珠玉記事を再掲載しました。
(2009年10月01日の過去記事より再掲載)
前話 珠玉記事 183 人馬一体の家のこと、草のこと。
建築家・永田昌民さんが設計した岩手遠野の馬の家
「野草」で、グッドデザイン賞を受賞しました。
――第10回生物多様性条約締約国会議(COP10)に向けて
趙海光さんがシステム構築している「現代町家」で、意識的に空地を生み、そこに自生種の樹木と草花を植えることをコンセプトとする案がまとめられました。
博多の長崎材木店が「博多・現代町家」とネーミングし、この案を引っさげて、今年度のグッドデザイン賞に応募しましたところ、まだ実際の建物が建っていない段階にも関わらず、見事受賞を果たしました。
どういうコンセプトなのか、ということ自体、一つのデザインなのだと評価する目が審査員にあったからで、そのことに敬意を表するものですが、野草をテーマにしてグッドデザイン賞を受賞したというのは聞いたことがなく、めずらしいことかも知れません。
来年(2010年)、名古屋において第10回生物多様性条約の締約国会議(COP10)が開催されます。
1993年に発効した生物多様性条約は、地球上の生物多様性の保全を目的に、漁業に関する条約、渡り鳥などの条約、ボン条約、ラムサール条約、ワシントン条約、IWC条約、国際熱帯林協定、世界遺産条約の一部などについて、世界の自然や環境保全にかかわる条約・協定を広くカバーする国際条約で、この条約には、現在191カ国が加盟し、締約国会議は2年に1回開催されています。
昨年、ドイツのボンで開かれたCOP9(2008年)では、ドイツのメルケル首相が森林保護のために2013年以降、現在の2.5倍に相当する年間5億ユーロ(約820億円)を、国際的な森林保全活動に拠出する考えを表明しました。おそらく日本政府も次回会議において、鳩山新政権の政策として、またホスト国として他の国々をリードする、積極的な提案が出されることでしょう。
来年は、この国際会議もあり、生物多様性を巡るニュースが増え、議論が活発になることが予想されます。地域工務店も、この問題に無関心ではいられません。
しかしながら、このテーマは、民俗性やその国の文化にも関わる微妙な性格を有していて、なかなかむずかしいテーマです。理解と見識が求められます。
http://www.wwf.or.jp/activity/wildlife/news/2008/20080623.htm
生物多様性条約第10回締約国会議支援実行委員会
http://cop10.jp/aichi-nagoya/
今、わたしは長崎県の対馬の小さなホテルにいて、これを書いています。
この島は、島の90%近くが森林に覆われ、斧が一回として振り下ろされたことのない照葉樹の原生林が、島のあちらこちらに見られ、一方、人工林も30%ほどあります。
今回の訪問で、わたしは待望していた原生林にも、対州檜(対馬のヒノキ)の森にも、足を踏み入れました。今朝のわたしは、その興奮で包まれています。
よくいわれるように、自然景観の骨格は、地形と植生で決まります。
この二つの側面と、もう一つ、そこに人為が加わることにより、自然は変貌します。
この島は、実に豊かな森を持つ島であり、一方において、生物分布の十字路とされる島です。現代の問題が、集中的に表現されていると思いました。
対馬訪問記については、別に「びお」に書くことにしますが、この島を再訪して、原理的な視点と理解を、しっかり持たないと何も見えないし、解けないと痛感しました。
来年1月22日に、対馬市・対馬森林組合・日本に健全な森をつくり直す委員会(委員長/養老孟司・副委員長/C.Wニコル)・森里海連環学実践塾(塾長/天野礼子・塾頭/小池一三)共催による「対馬から“林業再生”を考える」シンポジウムを開催することが決ったことを、ホットニュースとしてお知らせしておきます。
さて、本稿ではグッドデザイン賞の受賞を喜びつつ、野草を巡る話について書くことにします。生物多様性とは何かという大きなテーマについて、一つの議論の種になれば幸いです。
待宵草とセイタカアワダチソウ
さて、前回に続いて釜石線での話から入りますが、釜石線の列車から車窓に目を移すと黄色い花が、あちらこちらに咲いていました。待宵草です。
竹久夢二はこれを「宵待草」と呼びましたが、これは待宵草の誤用であって、待宵草という語感が気に入らず、意識的に言葉をひっくり返したものでした。「待てど暮らせど来ぬ人を、宵待草やるせなさ」の「宵待草」を、「待宵草」と歌い替えると興醒めもいいところです。嘘だと思う人は、「待宵草」と口ずさんでみてください。
間違いということでいえば、待宵草を月見草と思っている人が少なくありません。実は、わたしも長い間、そう思っていました。夢二には名前を変えられ、また名前を違って覚えられるわで、待宵草はおよそ薄幸の花と言わなければなりません。
標準和名では、黄花を咲かせる花はマツヨイグサ(待宵草)、白花を咲かせる花はツキミソウ(月見草)、赤花を咲かせる花はユウゲショウ(夕化粧)と呼んで区別されています。
太宰治は、『富嶽百景』の中で、「富士には、月見草がよく似合ふ」と書きました。この月見草は待宵草でした。
太宰は、師である井伏鱒二の招きに応じて、富士山が眺望できる御坂峠にやってきました。胸に深い憂悶を抱えていた太宰は、堂々として見える富士山を好きになれませんでした。そんなとき、原っぱに咲く月見草をみたのでした。
月見草は、富士に対してみじんもゆるがず、けなげにすっくと立っていました。富士と対峙するわけではないけど、自分は自分だというふうに。そんな月見草を見て太宰は、自分らしさを保てばそれでいいのだ、と自己回復を果たすのです。
独断と偏見でいうのですが、もしこのとき、本当の月見草の白い花だったら、太宰は、こんなふうに力を与えられなかったのではないか。
夢二の『宵待草』ではありませんが、「富士には、待宵草がよく似合う」では変ですもの。ここはやはり月見草でいいのです。太宰が描いた「月見草」は、みながみな思い描いている「月見草」なのです。いうなら、その共同幻想によって『富嶽百景』は成り立っています。この一文で太宰は、「月見草」を白い花とも黄色い花とも書いていません。もしかしたら、夢二と同じように、太宰も意識的にやってのけたのかも知れません。
本当の月見草の白い花についていうなら、花自体の生命力が弱く野生化することはなく、富士に立ち向かう花ではありませんでした。
釜石線の車窓からだけでなく、遠野に着いて、目的地のQMCH(クイーンズメドウ・カントリーハウス)に向かうときにも、道端に待宵草がたくさん咲いていました。要するにこの花は、公園の花壇ではなく路傍や原っぱに似合う花なのですね。それでいて、相手が富士山であろうが何だろうが、ちっぽけな存在なのに、たじろぎもせず咲いている花なのです。太宰は、そこが気に入ったのです。
それは、この花の出自に依るものと思われます。というのは、この花とその仲間は、明治初年(1870頃)に続々と渡来してきた外来種であり、逞しい生命力を持って、日本に根付いた花だからです。
この花は、南アメリカのチリ原産です。茎の高さは30〜90cm。上方で分枝し、葉は互生し、花弁は4枚ずつ、おしべは8本、めしべは1本。英語では eveningprimrose(夕闇のサクラソウの意)と呼ばれます。
待宵草は、線路沿い、道路端、廃校・廃坑跡、耕作放棄された畑や休耕田、山間部の荒廃地など、いたるところに咲いています。この浸食力の逞しさは、この花が持つ本性なのだと、わたしには思えてならないのです。
けれども、セイタカアワダチソウのように図々しくありません。はびこり方も、まあ適度であって、自分の身分を、よく心得ているような感じがします。セイタカアワダチソウは、刈れば刈るほど地下茎が広がり、それを根っこから掘り除くのは厄介この上ありません。それに比べると、待宵草は可愛いものです。
待宵草だけでなく、日本に定着し、日本人に愛されている外来種の草花はたくさんあります。出自をいうなら、日本人が好きな、コスモスもひまわりもアジサイも、古くを訪ねるなら朝顔も、みな外来種です。
わたしは、秋空の下に咲くコスモスを見ると、松根東洋城が詠んだ「コスモスや雲わすれたる空の碧」という句が口をついて出て、さわやかな安らぎを覚えます。そのコスモスが、外来種として一括りにされるのは耐え難いことです。
さて、このような問題をどう考えるのか。植物学的にはとてもむずかしいことだと思います。心を鬼にして、それでもあなたは外来種だと告げられるのか、どうなのか。
今回、この解を求めるべく、田瀬理夫さんに教えを乞うため遠野を訪ねたのでした。
ニライカナイ信仰にも通じていて
遠野を訪ねたのは、9月の初旬でした。
この頃は、日中の残暑はきびしいというものの、朝夕は涼しく、植物を見るには半端な季節です。夏の花は、もう疲れてしまっているのか、ぐったりと草臥れていて、秋に色鮮やかな紅の綾を見せてくれる花は、まだ蕾さえも付けていません。
しかし野に目を移し、よく目を凝らすと、花はあちらこちらに咲いています。
わたしたち町の工務店ネットの一行は、QMCH(クイーンズメドウ・カントリーハウス)を訪ねたその足で、建物群から離れ、水田、採草地、池沼、駒形神社、水源地などを2時間ほど掛けて散策しました。全体に、手入れの行き届いた里山という印象が深く、池沼にはたくさんのモリアオガエルがいました。
モリアオガエルは、場所によって国の天然記念物に指定されている貴重種です。
このカエルはきれいな緑色をしていて、目の虹彩が赤褐色なのが特徴的です。この池沼には、被子植物であるガマ・ミクリ・イトモ・ヒルムシロ・オモダカなどが豊かに見られます。モリアオガエルは、それらの色彩の中に、溶けるように棲んでいます。
カエルの餌は昆虫類やクモ類などです。ヤマカガシ、イタチ、アナグマ、タヌキなどは、このカエルを餌にします。みんなこの里山に棲んでいるんだ、と思うとうれしくなりました。生物連鎖が、この里山の宇宙をつくっているのです。
「サルノコシカケだ!」と、誰かが大きな声を挙げました。
この里山には、キノコもたくさん生えていて、その色彩はもう秋のものでした。サルノコシカケは、樹木の幹に半月状の傘を広げていました。サルノコシカケを煎じたものは、癌の治療薬になるといわれ、貴重種のキノコです。
里山には、農村が自給自足するために必要なものが、たいがい備わっています。
衣食住の衣では、シナの木やオオバジナ、和紙にも使われるコウゾなどの繊維植物が豊富に採取されます。
食は、春の山菜、秋のキノコ、アケビやヤマブドウなど、食用とされる山野草はいっぱいあります。
住は、スギやヒノキだけでなく、加工道具になる金槌の柄となるアキグミや、鑿の頭には、いくら叩いてもへこたれないムラサキシキブなどが生えています。田の肥料となる草とか、燃料となる薪とか、蚊遣りの草になるヤマハハコとか、薬になるゲンノウショウコやドクダミ、オオバコ、それからサルノコシカケ等々……。
飢饉のときには、人は森の木の実を食べて生き残りました。
里山は、水源でもありました。
このため、地下水脈が集中する場所が選ばれました。日本の森の3分の1は保安林に指定されていますが、その70%は水源涵養保安林です。里山を持つことで、農村はいのちを与えられてきました。
柳田国男は「山の神-田の神-山の神」を小循環システムと括りました。
春に山から神が降りてきて、田の作物を実らせ、秋に山におかえりになるのです。津軽の岩木山では、秋には「田の神様」は海に出て「海の神様」になるという言い伝えがあります。
現在の民俗学では、「山の神-田の神-海の神-山の神」の大循環システムと括られ、それは沖縄の「ニライカナイ信仰」にも通じています。ニライカナイとは、遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、海の底や地の底にあるとされる異界をいいます。そのニライカナイから神がやってきて、豊穣をもたらして、年末にまた帰るとされるのです。
岩木山の山岳信仰の呪文に、「雪-水-田-海-雲-雪・雨」という循環を意味する言葉があるそうですが、原文を手に入れていません。いずれ岩木山を訪ね、調べてみたいと思っています。
わたしたち町の工務店ネットでは、この大循環システムを「森里海連環学」と括り、実践塾を重ねていますが、その一環として、今回の里山を見ると、実によく残されていると感心しました。水田にはコンクリート護岸はなく、素堀の用水路がありました。里山は人為の成せるものだと、改めて確信を持ったのでした。
この環境をつくり上げたQMCHのみなさんに拍手をおくります。ここを計画され、事業化されている今井隆さん、一貫した指導理念で取り組まれてきた田瀬理夫さん、ここに家族で移住され、引っ張ってこられた徳吉英一郎・敏江・茜さんご一家、ここの仕事に飛びこまれた、若い岩間敬さんと伊勢崎克彦さん、ここの建設を担って来られた林崎建設の林崎俊勝さんなど、そのご苦労は言葉に尽くしがたいものがあります。
と同時に、遠野が長い時間を掛けて生みだしてきた環境形成システムが、その背景にあることを知っておきたいと思います。
行く先を照らすのは
まだ咲かぬ見果てぬ夢
遥か後ろを照らすのは
あどけない夢
(『ヘッドライト・テールライト』 中島みゆき)
『遠野物語』考
遠野を語る場合、柳田国男の『遠野物語』を抜きにして語ることはできません。わたしは、この旅に際し、文庫本を買って携行する予定でしたが、家に忘れてしまいました。それでJR遠野駅のキオスクでこの本を見つけ買いました。また、遠野ふるさと村で、遠野物語セミナーの講義記録をまとめた『植物のフォークロア』(遠野物語研究所刊)という本を手に入れました。それらを読み込むことで、QMCHの取り組みの意味と価値がしっかり見えてきました。
『遠野物語』は、柳田国男35才の仕事です。
「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石(喜善)君より聞きたり、昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分をりをり訪ね来たり、この話をせられしを筆記せしなり」
(『遠野物語』序文)
遠野物語セミナーの講義は、『遠野物語』と柳田国男の仕事の中から、植物について書かれた話について、民俗学者の後藤総一郎さん(この人は天竜の奥地遠山郷の出身の方です)を中心に、いろいろな人が登壇して語られた内容をまとめた本で、とてもおもしろい本でした。このほかに柳田国男の『野草雑記』や『都市と農村』などに目を通しましたが、多くの手掛かりを、これらの本から与えられました。
さて、柳田国男は『遠野物語』の出だしを、こう書き綴っています。
「この地へ行くには花巻の停車場にて汽車を下り、北上川を渡り、その川の支流猿ヶ石川の渓を伝いて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝えいう、遠野郷の地大昔はすべて一円湖水なりしに、その水猿ヶ石川となりて人界に流れ出でしより、自然にかくのごとき邑落をなせしなりと」
(『遠野物語』角川文庫)
遠野という地名の「トー」は、アイヌ語で「湖」を意味します。遠野は地理学上にいう湖盆の跡です。つまり『遠野物語』は、かつて湖だった盆地宇宙における、人と自然をめぐるフォークロア(伝承)なのです。
『遠野物語』にでてくる話は怪異なものが多く、河童や山男や天狗などの魔物が登場します。魔物は、人にとって恐怖の象徴です。遠野の人たちが、怪異な話を語り伝えてきたのは、村という共同体を維持するための知恵だったように思います。怪異な話は、村人たちにとって越えてはならない境であり、いわば暗黙の掟でもありました。この魔物への畏怖が、邑落(集落)の維持にとって、不可欠なことだったと思います。
『遠野物語』の中に、娘と馬が愛し合う有名な話(角川文庫版44p)があります。
「昔ある処に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養ふ。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。ある夜父はこの事を知りて、その次の日娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のをらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きゐたりしを、父はこれをにくみて斧をもちて馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り至れり」
曲がり屋は、人馬一体の家です。したがってこの話は、遠野人にとって、決して突飛な話ではなかったように思います。人と馬は深い絆で結ばれていました。馬のあの澄んだ目を見ていたら、それに魅入られる娘がいても不思議ではありません。家族内の諍いに、馬が巻き込まれるというような、とんだ悲喜劇もひんぱんにあったでしょう。馬は、家族同然の存在だったわけですから……。
そのように見ると、『遠野物語』は、人間臭い話ばかりが散りばめられている、と言ってよいと思います。魔物たちは、小盆地宇宙・遠野の里で繰り広げられてきた人間の営みと共にあり、人々はそれを畏れ、敬い、排斥することで、どうかすると崩れそうになる共同体を保持する知恵として役立てていたのだと推量されます。
遠野市附馬牛に、馬の守護神とされる「おこま様 (駒形大神)」が祀られている駒形神社があります。鬱蒼とした木立のなかにあり、その境内に馬留りがあって、例祭が開かれる時、馬はそこに繋がれます。古くは沿岸や内陸からも信者が大勢集まりました。
駒形神社がある附馬牛のことは、『遠野物語』にひんぱんに出てきます。
「附馬牛の谷へ越ゆれば早池峯の山は淡く霞み山の形は菅笠の如く又片仮名のへの字に似たり」
と書かれていて、附馬牛は早池峰山の裾野にある、遠野の中でも自然の濃い地域です。
附馬牛は、柳田国男に遠野に因む話をもたらした佐々木喜善が生まれ育った土淵村と並んで、最もひんぱんに出て来る地名です。殊に早池峰に因む話や、マタギ、木挽など山の民の話は附馬牛の話が多く、馬と牛が附いているという、この奇妙な地名の通り、馬牛と人との関わりの深い土地です。
駒形神社に、河童の指が奉納されているという話を聞きました。
この話の謂れはこんなふうです。馬の事故がひんぱんにあり、それは河童の仕業によると考えられ、河童征伐に乗り出すことになりましたが、それを察知した河童は、秋田蕗の葉の上に、ヤマメ、イワナ、ウナギなどを山程盛り、その側に、河童の指が置かれていたということです。河童が改心したことを知った村人は、それで河童征伐を取りやめました。それと共に、馬の事故もぷつりと途切れたといいます。
QMCHは、この附馬牛にあり、駒形神社のすぐ横 (というより御料牧場内)にあり、それは今回の、短い散策コースのハイライトでもありました。
この土地を、よくぞ選んだ今井隆さん(QMCH代表)と田瀬理夫さんの慧眼ということを感じました。
田瀬さんたちの企みの凄さは、最も遠野を表すにふさわしい附馬牛という地域を選び、わけても「おこま様 (駒形大神)」の御料牧場ともいえる場所に、QMCHを開いたことです。そのことを以て、遠野、ひいては日本の馬文化のメッカとなる有資格を得たといえるのです。事業戦略的にも、なかなかの展開です。それを経営の成功と呼ぶには、なお幾つものハードルがあるとはいえ……。
駒形神社は、神社の境内、参道、本殿や拝殿などの建築物合わせて、約2・4ヘクタールあり、建物は明治時代以降に建てられました。本殿は1925(大正14)年に建築されています。
わたしは駒形神社にいて、『遠野物語』の真只中にいるという感慨を持ち、心が騒ぎました。天竜の奥山に山住神社があり、そこにお犬 (狼)さまが祀られていますが、そこに行くと、どういうわけか神の気配を覚えるのと同じような感情を、わたしは駒形神社に感じたのでした。
アオゲラホールでの座学
今回の座学は、アオゲラホールで開かれました。アオゲラは、ツグミほどの大きさの鳥で、木の幹を嘴でつついて、中の幼虫を食べます。キョッ、キョッと鳴き、飛びながらケレ、ケレ、ケレと鋭い声を出します。
この建物の木の壁をアオゲラが突いて穴を開けました。その穴に地ビールの瓶が埋め込まれていて、そのビール瓶の色は深い海のような蒼さです。残照に照らされて、そこだけつよい光彩を放っていました。ホールの下階は馬房になっていて、時折、馬が嘶きます。
田瀬理夫さんから「草の話」を聞くのに、これほどふさわしい場はないでしょう。
田瀬さんは座学で、先ず「都市でおこっていること」について述べられました。
田瀬さんが見るところ、最近の都市で顕著なのは、日照不足・水分不足・水分過多による土壌劣化だと言います。加えて、化学肥料過多・薬剤投与過多による土壌生物環境の劣化をあげました。さらに、日照を蓄熱するベイプ(夏暑く、冬冷たいコンクリートやアスファルト舗装)をあげ、地面はもう、ほぼ人工地盤だといいます。
次に「都市の公園・緑地で起こっていること」について述べられました。
都市で目立つのは、造園樹木による単純な植物相であり、また、落葉の除去、雨水の直接法流、踏圧によって土壌生物の環境が劣化し、公園・緑化地には、大量の薬剤(除草剤・殺虫剤・殺菌剤)が散布されることによる限られた生物相です。
このアーバン・エコロジーの現状を、田瀬さんは冷静に、訥々と語ったのでした。わたしは、田瀬さんの仕事の難儀を思いました。
しかし、これは都市で起こっていることだけではない、と田瀬さんは言います。
田園でも同様のことが起こっていて、里山のエコロジーの貧化と年中行事の劣化が著しいと言います。里山林の放置、シカ・サル・クマ・イノシシの大増殖によって植物相、生物相の劣化が進行しています。また、田圃と畑の省力化が進んだことによる水系(化学肥料、農薬、除草剤、産業廃棄物埋立地流出水)の汚染と、畦道・泥床水路の喪失、休耕化の影響によって植物相と生物相の劣化は目を覆うばかりです。
この状況を、どのように克服すればいいのか、田瀬さんはアーバン・エコロジーにおいては、植物の多様性(植物と生物の種類を多くすること――生物は食べるものが決まっており、植物の種類が増えると生物の種類も増えるという関係)、水分・養分をストックし、活性度を高めること、生物環境形成機能(長寿な土壌生物を促す)を挙げます。
このための田瀬さんのアースワークは、「Gabion Greening(緑色革命)」というべき数々の事例によって示されていて、その事例がスライドで映し出される度に、参加者の目が注がれました。殊に住宅建築を生業とする参加者にとって、田瀬さんが住宅の緑化で、手を出す前と後の違い(実施前・実施後)については、大きな驚きでした。
工務店にとって植栽工事は、電気・水道工事と同じ扱いで、業者に丸投げしてきたのが実情です。設計の段階で植栽をしっかり考え、計画化することの意味と価値を、田瀬さんは実例を通じて示されたのでした。
また、田瀬さんはルーラル・エコロジー(田園ルネッサンス)についても述べました。その基本は、流域の再生です。若者が地域に留まる(戻る)こと、農業を有機化すること、地域植生にしたがうことを挙げます。
これは近くの山の木を用い、森里海連環学を進める町の工務店ネットの考えに沿っており、田園ルネッサンスとアーバン・エコロジーは、ここにおいて繋がっています。
もう、自宅の庭しか残されていない
生物多様性がいわれます。
在来自生種である桔梗やりんどうが、絶滅危惧種に指定され、外来種が日本の野山を侵食しています。畦という畦、水野辺、山野辺から自生種の草花が消えました。暴威を振うのは、セイタカアワダチソウなど、外来種の草々です。
一方、アメリカでは日本の葛が繁殖し嫌われています。イギリスでは日本のイタドリが川沿いにびっしり繁茂していて、彼の国では、これらの植物は天敵とされています。自生株を育てるのは手間が掛かります。
田瀬さんは、外来種を見つけたら、どこの国でも、親の仇のように草刈りすることが、自生種を守る唯一ともいえる方法だと言います。つまり、その地域の自生種をお互いに守ることが生物多様性を条件づける、というのです。
これは、冒頭に述べた待宵草とセイタカアワダチソウの話と重なります。どこまで外来種を許容していいものか、この点に関しては、町の工務店ネットの運営委員会でも議論があって、理解に相当の差があります。
ある工務店は、イチョウ(銀杏)も外来種だといいます。この木は中国原産の落葉高木で、日本には室町時代に入って来ました。病虫害に強く、各地に長寿、巨木があり、東京の明治神宮外苑や、大阪御堂筋の並木道に植えられている木として日本に定着しています。種子はぎんなんで食べられます。材は良質で、碁盤などに利用されます。アヒルの足のような形をした葉は、秋には黄葉し、落葉します。
厳密にいえば外来種ですが、だからといって、これはマズイということになるのか。コスモスもひまわりもアジサイも、朝顔も、マズイのか。
田瀬さんに、「ぼくはコスモスが好きなんだけど」と言いましたら、「あの花は浸食しないから」と、ぼそっと言われました。いいとも悪いとも言われたわけではないけれど、植物に関して「原理主義者」といわれる田瀬さんの言葉だけに、なるほどと合点が行きました。上手に定着しているものに目くじらは立てないけれど、何に対しても、いつも注意深く見ている感じで、田瀬さんは、その柔らかさと厳しさのバランスがいいのですね。
本文を書くに際し、柳田国男の『野草雑記』(柳田国男全集12巻/筑摩書房)を読みました。その冒頭に、柳田は自分の家の庭には、始め「何物をも栽えない主義」であると書いています。その土地には、すでに生えている木や草があり、その実生が飛んできて、自然に根づくからいいのだ、という話だと思いますが、柳田が東京成城に居を構えたのは1927(昭和2)年でした。
今もし、柳田が言うように「何も何物をも栽えない主義」を通したら、外来種にほとんど支配されてしまうというのが現実です。都市公園も、湖の畔も、田の畦も、路傍も、どこもかも外来種が跋扈していて、もう自生種は壊滅的です。
わたしの事務所は湖の畔にあります。訪問者はみな「緑がいっぱいでいいですね」と褒めてくれます。けれど田瀬さんは、この湖を巡る植物環境を一瞥するや、まったくダメだといいました。身も蓋もありませんでした。これはショックでした。
その日から、少しばかり注意して見るようになったのですが、田瀬さんがいうように、どれを見ても外来種ばかりです。自生種は、一体どこに消えてしまったのだと思いました。
自生種は、どうしたら再生されるのか。わたしは、もう家の庭しか残されていないのではないかと思い、町の工務店ネットのメンバー工務店に「野草に目覚めよ!」と呼びかけました。この突拍子もない呼び掛けに、戸惑いを覚えた人が少なくなかったようですか……。
野草は、いうなら「雑草」です。
田瀬さんは「雑草という草はない。みんな名前を持っている」といいます。
柳田国男の『野草雑記』に、「菫の方言など」という一文があります。
柳田によれば、菫の命名法は先ず3種類に分かれると言います。一つは駒(馬)の顔に見立てた命名で、薩摩ではトノウマ、筑後ではコマヒキグサなどと呼ばれています。二つ目は、角力に見立てた命名で、越後ではヒッカケと呼ばれています。三つ目は男の子の次郎太郎の名に寄せてのもので、美濃などでジロウタロウと呼ばれていると言います。曼珠沙華が、彼岸花や狐花など、千に及ぶ異名を持つことを丹念に調べたのも柳田国男でした。
柳田は、人間と植物とが同じ価値を持っていると考えた学者です。
この生命に対する尊厳の想いが、小さな菫の花へと向わせたのです。柳田は『都市と農村』(前掲13巻)の中で、地域は内発的な発展が大事で、生活を丁寧にしながら幸福に向うのだと言っていますが、野草を庭に植える行為は、「生活を丁寧」にすることだと思います。
宇野千代さんに『草を植える酔狂』(『野の草』所収・河出書房新社)という短文があります。「名も知れない野の草々が、土に吸いつくようになってびっしり生えているのを見て、心を打たれ」、そういう野の草々をわが家の庭に再現できないかと書いているのですが、それは酔狂かしら、と彼女は言います。というのは、通りがかりの人から、気の毒そうに「まァ、草をお植えになるんですか。草なら、放っといても、ひとりで生えますのに」と言われたからです。
「放っといても」というのは、先に紹介した柳田の『野草雑記』で述べられていることにも通じます。この「酔狂」を、宇野千代さんは「こう言う酔狂が許されるのは、ありがたいことである。老人の生活の、行きつくさきにあるものが、これだからである」と言います。
「下手でも、書き続けていると、その人の文体が生まれるの」という彼女の話を、生前テレビで聞いたことがあり、そのことにどれだけ励まされたことか。今回も、彼女が言う「酔狂」に励まされて、この「行」に勤しもうと思います。
赤まんまの歌
QMCHを散策していて、馬の餌にための採草場や、水田の畦で、たくさん見掛けたのは赤ままの花でした。正式名は、イヌタデです。イヌタデとは、即ち「役立たず」を意味する名前です。タデ(蓼)食う虫も好き好きのタデを代表し、そんなおいしくもない草を食べる物好きな虫がいたもんだ、といわれて、まあ散々な見方をされている草です。
犬胡麻・犬芥子・犬薺など、「犬」がつく植物は食用にならないといわれます。「雑草のなかの雑草」と言ってよい草ですが、子どもたちは、この草が米粒のような桃紅色の小さい花であることから、それを赤飯に見立てて「赤まんま」と呼び、飯事の大切な道具にされました。クローバーやレンゲ草などと並んで、草遊びの対象とされる、代表的な草です。
イヌタデの開花時期は、7中旬〜10月中旬。葉は楕円形。秋に茎の先端から穂を出し、花を密につけます。真っ赤な果実が目立ちます。この果実は黒っぽい色ですが、その外側に赤い萼を被っているので赤く見えます。
赤まんまの詩といえば、中野重治です。
おまえは歌うな
おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
若い頃、頑なにまでリリシズムを排した、この詩が好きでした。
重治にとって赤まんまは、詠嘆に流れるかも知れない自分を戒めるためのものでしたが、
それは重治にとって、「風のささやきや女の髪の毛の匂い」と同じように、自分の理性を見失わせるほどに風情を感じさせる草であったことを意味します。風情を擯斥しなければ、軍国主義の時代、自分を保ち得なかったのです。だから、重治はほんとうは赤まんまが好きで好きで仕方なかったのです。
そのギリギリのなかに赤まんまがあったことを、この詩に見たいと思います。
われわれはいま、赤まんまを素直に楽しむことが出来る時代を生きています。
野草を愛でるなんて、「酔狂」なことかも知れませんが、この「酔狂」が、これからの時代、いよいよ大切なことのように思われるのです。
この話を、島根益田でのシンポジウムの折、「森里海連環学実践塾」の塾長である天野礼子さんに話しましたところ、「塾を遠野で開こうよ」と言われました。
来年、もう少し秋が深まった頃、みんなで遠野を訪ねられるといいですね。
(文と写真/小池一三)。